EREHWON
或いは よるのゆめ
Statement
例えばカメラ•レンズを中心に据えて、一方に現実があり、もう一方の暗箱部分に非現実があるとする。そこでふと気づくのは、あたかも自在に伸び縮みする砂時計のような構造をもっていることである。うつつの砂溜まりからうつろの砂溜まりへ、うつろの砂溜まりからうつつの砂溜まりへ、無数のイメージがレンズをすりぬけていく。この構造は、イメージが際限なく増殖する、合わせ鏡にそっくりだ。
現実を写す(映す・移す)レンズは、形を変えた鏡といえよう。思い出してみるといい−−−−全てがアベコベな鏡の国を。映画『オルフェ』で描かれた、死神が手袋を嵌めて鏡面を越えていく、あの美しい情景を。現実と冥府は、鏡越しに繋がっている。いずれも偶然ではない。レンズや鏡のその先には、必ず倒錯した世界が広がっているのだ。「完璧すぎて偽物だ」とは『マトリックス レザレクションズ』(2021)の中での台詞。至言である。
この鏡の世界を最も端的に言い表したもののひとつとして、サミュエル•バトラーの小説『エレホン』(1872)が挙げられる。ふしぎな響きをもつタイトルは「ユートピア」を英訳したnowhere (どこでもない)をわざわざ逆さから読んだもので、作品の内容も、とうぜんディストピア(反理想郷)を描いたものとなっている。タイトルも作品の内容もそれぞれひっくり返っているのだ。しつこくねじれた関係性は、ポジとネガが自在に反転する、いかにも写真的なイメージと重なる。
世にカメラという病、写真という疾患があるとするなら、わたしはかなり重度なそれに罹患している。ただ写真を撮るのではなく、複数のイメージをかけ合わせることで、現実を素材とした、現実には存在しないイメージを生成するなどという、少々面倒なことに醍醐味−−−−その思いもかけない出来栄えになんど声をあげたことか!−−−−を感じているからだ。鏡の国はやはり無間地獄なのだ。砂時計の内側にいつしか迷い込んで、外に出る術を見失ってしまった。さらさらの砂が思いのほか暖かく、ふかふかしていて、どうにもこうにも居心地がいい。恐らくここが、紛うことなきわたしの「EREHWON」なのだ。外に出るための唯一の術、白い手袋はどこかに置き忘れてしまったままだ。
EREHWON (2024 〜 )